テーマも無いままに、見苦しいブログに成ってしまっていることをお詫び申し上げます。
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ただいまコメントを受けつけておりません。
永遠の世界で生きている
わたしがこの永遠の世界で生きていると悟ったのは、高校を卒業し、ニートして作詞作曲を目指していた時だった。
私は、家にいて何もしていないのに息をするにもしんどく、しんどすぎて、死んだらどうなるのか?と考えた時であった。
私には、心の何処かで、無が永遠には続かないことを知っていたのだ。
死んで、永遠の無に帰せたら、どれだけ楽かと思えた。
皆は、無を怖がっているようだが、死んで無に帰し、本当に、無限永遠の死が待っている方が楽である事に、気づいていない。
命ある故に、苦しみ、疑問と矛盾の中にさまよい続け、幸福や、喜びを求め続けなければならないのだ、死んでもし、無限の無が実現するのであれば、死にたくなったら死ねば良い。無であるならくるしみは、もはや存在しない。
これほど楽で良いものはない。
もはや、幸福になる努力も楽しむ必要もないのだ。
楽しみが必要なのは、自己の存在がある故だ。
もし死んで無に帰すなら、生きていて何があるというのか?
今があるから、楽しい必要があるのだ。
死んで無限の死になるのだったら、それらの楽しみに、何の意味があろう。
栄華を極めたソロモンも、仏となった、釈迦も、全ては苦だといっている。
もし無限の無が待っていてさえくれれば、それまでの辛抱とあるいは、死んでしまえば良い。もはや、自己はいないのだ。全てが、無に帰しなくなってしまうのだ。
苦しむ必要が、どこにあるだろう。楽しむ必要さえない。
楽しむのは、楽しいのだから死を考える必要もないだろうが、その先に、苦しむ必要があるなら、その楽しみに何の喜びがあるだろう。
もし、死んで、無限の無が待ち受けていたら、楽しむだけ楽しんで、さっさと、死んでしまえば良いのだ。どっちにしたって、無限の無なら、人生は、幻にもならない、ほんの一瞬の錯覚でしかない。その錯覚さえも消えてなくなるのだから、不気味な人生を送るハメになる。頑張る必要がどこにあるのだ?死後を恐れる理由が知りたい。むしろ生きてる今が恐ろしいはずだ。残念ながら、無限の死などありはしない。あったら、魔法だ!
そもそも、ないなら、始まらなかった。何かが有ったから始まってしまったのだ。あなたという存在も、あなたという存在があったから、始まってしまったのだ。あなたと言う存在が、存在の内になければ、あなたは、存在しなかったのだ。その生まれる前の自分を忘れてしまっているだけなのだ。
これは、同じ事を他のページでも詳しく述べたが、大事なことなので、もう一度いうと、
始めに、世界は、あるいは、すべては、あるいは、何かあるものがあるか、無いかの2つしかありません。あるのなら、世界、あるいは、全て、あるいは、本質があるという事になり、世界は存在が絶対的真理であり、ないなら、無いと言う真だったわけです。しかし有ってしまったのだから、存在を知らされた我々には、もはや、無いという真があるとは、言えなくなるのです。
無いと言う真があるなら、あるのであるから、無いと言う真に反してしまい、間違いであるという事に成るのです。つまり、あると言う真理は、絶対であり、何かがあるのです。つまり、無がある、と言う時、無は無いのではなく存在である。と言えるのです。それでは、何もない無には何があるのか、それは、無になっている状態にある者あるいは、物があるのです。そして、状態には、時が同時に存在しています。ただし、この「時」は物理量のある時間では、ありません、変化という「時の正体が」存在しているのです。ですから、死に言う無は眠りと同じであり、無意識なのです。時間は、有限ですが、時は数と同じく無限です。無から有は、ありえますが、無いところからは、何も生じません。ビッグバンと言う宇宙の始まりも、ゆらぎから生じたとされています。つまり、ゆらぐ何かが有ったのです。この様に無が無限に続くというのはありえないのです。必ず、意識に目覚めてしまうのです。そして、それは、存在と言う物の正体あるいは、真理なのです。そして、時と時間は、別物であり、過去に生まれ変わることもあり得るのです。
無限の無より、無限の存在の方が恐怖です。なぜなら、私たちは、何も知らないからです。想像では、天国を夢見ることも出来ます。しかし、死んでみるまで、死後自分がどうなるかは、あくまで、想像の域をを出ません。この世ですら地獄のような体験は、自分はしていないにせよあります。それなら、死後に地獄がないとも断言できません。ただ、存在と言う事を考え合わせた時に、地獄は、一時的に経験することは、あっても、そう長くは、続かないだろうと言うのが、私の見解です。と言うのも、存在はエネルギーであり、喜びに結びつかない、苦痛や苦しみは、耐える動機に欠けているため、その世界に、長くとどまれないからです。エネルギーは、喜びや、幸福につながる事によって、湧いてくるものであり、そのエネルギーが収縮するような地獄は、存在する価値が無いため、懲らしめのための一時的、価値によって生ずるか、主体、つまり、生きている者の正体が自ら招き寄せてしまうことで、経験するのであって、地獄の苦しみにあえぎながら、そこに、いつまでも、存在できるはずがないと言うのが私の考えです。存在そのものは、自己との関係において、成り立ちます。というのも、存在は、主体、つまり、見る側、経験する側の意識が現象させるものであり、自己の意識がない時は、無意識であり、他者から見た目によって、その人がどんな状態に映ろうと、自己が、無意識ならそこには、自己は、存在していないのです。
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先に無は、存在だと言いました。その無について、説明したいと思います。無とは、例えて言い表すなら、白紙の紙に例えることが出来ます。この、白紙の紙には、描かれる前から、あらゆる形が、眠っています。あらゆる形が存在する以前から、存在しているのです。ここに、何か、形を描いたとします。すると、存在する存在として、識別が生じ存在と成るのです。しかし、その形存在は、存在する前から、その白紙の紙にそんざいしていたのです。これに対し、ないと言うのは、この紙自体から、存在していないのと同じで、描くことすら、出来ないことです。つまり、無は、存在の本質であり、無には存在の全てが存在しているのです。そして、この無から、宇宙と、その宇宙のありとあらゆるものが、生じたのです。もし、本質が、存在でなく、無い、と言う真であったなら、宇宙も、何も生じることは、出来なかったのです。そして、存在とは、意識の生み出す現象であり、意識がなければ、存在するものは、存在していても、それを、認識する者がなく、無と、代わりは、なかったのです。言い換えるなら、私、あるいは、あなたは、無限に存在なのです。
たしかに、無に帰すことは、あります。しかし、無は、無意識という状態であり、ないのでは、ありません。そして、もし、無に成る事によって、記憶を全く失い、その記憶が、永遠に消えてなくなることの繰り返しなら、永遠の無と殆ど変わりません。存在が、記憶を持つ我々を生じさせたのは、存在が、自身を知り、知って貰うためだと、私は、考えます。存在を確認する我々によって、存在は、私の世界に確認されます。それにより存在は、自身の価値を高めます。むしろ、私に言わせれば、生まれる前の記憶を持たない方が、特殊な状態にあると思えます。これらの、事に気づいている人たちは、死後に、本当の世界がある事に気づいています。死んで無になり、その度に新たな、人生を歩むとしたら、それらの経験に何の意味があるでしょう。確かに、悲惨な人生を送ったために、その傷や記憶を消すために新たな人生を送ると言う事はありえます。しかし、良かった人生を、忘れてしまうなら、生きている時には価値がありますが、死んで無に帰し、忘れてしまうなら、その価値は、なくなってしまうのです。パソコンでもそうですが、記憶を、この場合、データを消さないために、色々な、手をつくして、記憶を守るデバイスや、メディアを考え出し、記憶を守るための構造を作り出しました。存在は、絶対であり、無限でありますが、存在するものは、有限です。そして、存在するものは、命であります。存在それ自体が命の特徴を有しているのです。意識が、脳の産物と考える遅れた、知能というか、魂というか、そういう唯物論者には、このサイトの中で、以前、書きましたが、ここで、改めて、言っておくと、人間の特殊な構造や、動物植物に見られる、生命活動の緻密な働き、宇宙の恒星の爆発と再生に見られる生命現象の数学的巧妙性などを考え合わせた時、唯物論者が考える物質とは、一体その正体は何だと言いたいのか?たとえば、人間の目に映る水と、アメンボウが経験する水とは全く別物であり、、その事から、物質の正体は、主体、見る側、認識する側、に依存していて、唯一、自性があるとすれば、H2Oと言うプログラムにすぎない。それならば、プログラムした神を認めるか、物質自体に生命性があると認めるか以外にないのではないのか?物質の自性を何によって説明するのか?と言う、質問において、物質が、物質自体だけでは、存在せず、この宇宙、しいては、存在それ自体が命という特徴を備えていると言えるのであって、それ故、存在は、記憶を保とうとする働きを、おそらくは、霊と言う、物質€のように具体的で、固定的でない、霊と言う存在に記憶を与えた。それが一番最初の主体、見る側、認知する側であり、存在の特質を具現する唯一神と呼ばれる存在だったのではないか?と想像するのであります。
唯物論者に言いたいが、石ころが、なぜこんなにも硬いのか?どのように説明するのか?
想像の中で、あるいは、夢の中で、これほどかたくなに、硬いものが、作れるのか?私は、この世が、なぜ、これだけ、確実に、存在しているのか、不思議でならない。むしろ、霊的存在のほうが、抽象的で、観念的存在であるために、この具体的で、確かな世界を開拓したがるのではないだろうかと、そう考えている。しかし、問題は死であり、痛みであり、老いである。それがなくて、しかも現実的な実体的世界に生きてみたい。実は、私は、個人的にその世界に自分の本体が、あると、思っている。その世界は、他の人が経験する死後とは違う世界だと思うが、私は、そこから来たと思っている。
話が個人的になり反れてしまったが、存在は、生命現象であり、それ自体が生き物と同じように、構造を作り出してきた。精神世界や、その他に宗教的世界や最近流行りのスピリチュアルな世界も実際に存在すると、考えている。それは、存在が、想像や、思考を、具現しようとする性質があるがゆえである。
存在とは、絶対的真理であり、永遠の命の働きであるのだ。そしてその中で、我々は、永遠に生きているのであり、その事を知っていた昔の人達は、その永遠に生きている固有の命の永遠性について、永遠の魂と読んでいたのである。
ところで、私の、この世界に対する疑問は、実は、小学校3年生ぐらいの時にまでさかのぼる。近所のお兄さんに、この宇宙が、無限永遠であると聞かされた時のことである。
私には、この無限永遠であると言う事が理解できなかった。「始まりも終わりもない」なんて、おかしな世界だなあ?と、そして、そもそも、これ、(世界)は、なぜ有ってしまったのだろう。もし、もとから、何もなければ、完全であったろうに!とそうおもった。
それは、今付け足せば、あるが、ゆえに、矛盾や、疑問が生じる。あるがゆえに、苦しみや、苦痛が生じる。あるがゆえに、喜びや、楽しみが、必要となり、その為に、達成する為の犠牲、たとえば、努力や、忍耐、時間、他の喜びを捨てる、または延期しなければならない。などの犠牲を必要とするのだ!それどころか、今の時代にあっては、ただ生きるという目的の為だけでも、これらの、犠牲を払わなくては、ならないのだ。
私が、最も、これらの犠牲に対して、バカバカしいと感じていたのは、両親が、八百屋の露天商を営んでいたのだが、朝は、6時には、起きて仕入れに行き、もしかしたら、もっと早く3時や4時に産地に足を運び、夜は夜で、何時に帰ってきたのかわからないくらい、遅くまで働いて、生涯で何をやったかと言えば、、家を持つただそれだけの事だ。しかも、家を持って、それを得て終わりではなく、その店を、止めなくてはならなくなって、今度は、お好み屋をやり、次第に、御食事処兼居酒屋風に内容がかわったが、私が、強く思ったのは、仕事で、一生涯が終わるという、バカバカしいこの世界であった。私が、正気を乱したのはその為である。今、分析すると、母親は、苦労しないと、お金を得てはならない。と言う馬鹿げた古い考えにとらわれていて、人を雇い、教育して、店を任せ事業を発展させるとか言う、発想にかけていたのだ。そのくせ、お金は、私のものと思い込んで、ケチケチ、ケチケチ、していたのだ。そう言った世界に行きていた私は、いくら働いても、幸せには、なれないと、そう考えるようになった。
これを、話し出すと、本題からそれていることに、今気づいたので、この話は、ここでやめるが、そんな性もあってか、自分がしたい、創造的な仕事で、大きく稼ぎたいと思っていた。絵や、音楽で生活している人は、今でこそ、特別ではなくなっているのかも知れないが、私の時代では、特別な職に入っていたと思うが、作詞作曲で、生活したいと考えていた。それは、絵は、死んだ後から価値が出るものと言う考えがあったからだ!
一度は、住み込みで、牛乳、乳製品、パンなどを、時間を決めて、団地などを回る仕事に付いたが、しんどくなって、止めて、最終的に、親元に帰り、無理やり、ニートした。しかし、背中から、しんどいのが、抜けず、息をするのもしんどい有様で、それで、死んだらどうなるのかと、考えるように、なったのだが、その時には、逆に、無限永遠の世界の方が、当たり前で、何故かと言うと、数が、無限であるように、時もまた、無限であると、気付いていたからだ。そしたら、このしんどさは、また、再びやってくる。死んでも、解決しない。とそう考えた。しかし、そこで、私は、気がついた。それは、私は、永遠に生きているという事である。この事に気が付いたまでは良かったが、その後で、この外界は、私が作り上げたもので、自分こそが、存在の正体!つまり、神なのだと、考えを飛躍させ、こんな、馬鹿げた世界はつぶしてしまえと、気がふれてしまい、あばれた、あげくに、警察に、取り押さえられ、精神病院送りへと、なってしまい、キチガイのレッテルを、押されてしまったのである。
その後も、私は、自然治癒力を信じていたことと、クスリを処方している限り、キチガイであることを認めたことに成ると思い込んでいたため、クスリを、おろそかにし、その為、回復が長引き、入退院の繰り返しとなり、歳も取った性か、健康面も良好とは、言い難い。妄想に囚われ、自己の不死身を自分に証明せんと、車の行き交う道路に飛び込んで、ダンプに跳ねられ、顎の骨を砕き、鎖骨の特にきつい仕事をしない限り大丈夫だと言う部分を脱臼したままと成ってしまった。まだ、下半身不随などの、致命的、障害を抱えなかっただけ、マシだったなあと、思うが、働く意義を、お金以外に考えられなかったことが、不幸の原因である。
またまた、本題とかけ離れてしまったが、これによって、とにかく、無が永遠に続かず、永遠に自己の意識は、生きているという事が、わかった、ことである。
それからのちも、死後についての考察は、続いたが、まず現時点、生きている間は、脳が作り出した世界を、我々は、生きており、生き物の数だけ、その世界があると言う事実だ。同じ地球の同じ国に住みながらも、皆自分の世界で生きており、同じものを見ていても、その感想が、それぞれ違うのは、その為である。
ゆえに、死んでどうなるかも、おそらくは、皆、違う答えが待っているだろうと言う事である。
ただ存在の無限永遠性を考えた時、何故こんな、理不尽な遅れた世界に、私は,生れて来たのかという疑問である。自己の正体は、無限の命であり、今という時は、最先端のはずである。無限の内に於いて、全ては、達成されているはずである。そうであるのに、何故、生まれる前の記憶を持たないのか。しかし、この世に、生まれる前の直前の記憶を有していたり、生まれる前の記憶を持つものも、中には、いるようだ!
私の、中学の時からの親友で、釣り仲間の一人である人物が、話の流れの中で、こんな、話を、漏らしたことがある。それは、生まれる前、この体に、入るのをためらうものばかりで、よーし、それなら、俺が、入ってやると言って、入って、生まれてきた。というのである。普通なら、そんな話をすると、頭がおかしいと思われるので、しないのだが、私の話の内容につられて、本当の事を口にしたのだろう。
世界にも、3歳くらいまで、生まれる前のことを覚えていて、親に、その話をするものが、いるようだが、3歳を過ぎたあたりから、その事を忘れてしまい。そんな話をした事も、忘れてしまうそうである。と何かの本で読んだことがある。
人は自分の関心のある情報や、職業柄によって、集めてくる情報が違うため、客観と言う内容さえ、実は、主観を背景にし、常識が、生きている世界によって違う。過去の歴史を見ても、常識を塗り替えてきたのは、非常識な考えであり、常識という安全な思考の中に身を置く方が、無難とばかりに、新しい考えをバカにし受け入れない。
UFOしかり,スピリチュアルしかりである。メキシコあたりで、UFOは、普通の現象だと言っても、受け入れない。
まあ、信じる、信じないは、その人の勝手であって、UFOを信じたところで何の得もないのだから、好きにすれば良いが、死後どうなるかについては、おそらくは、誰もが経験することであるのだから、ある程度は、信じる信じないは別にして、関心を持った方が、得策だとは、思うのだが、確固たる自信があれば、別だが、色んな情報に触れてみるのも、悪くないと思うのだが、どうだろう。特に唯物論者は、無限の無にタナトフォビアになったり、生きる意義を感じなく成るなどの、悪い傾向がある。今ここで、唯物主義に今一度真剣に考え、存在の持つ、永遠の命について、自己の永遠の存在性、つまり、永遠に生きる永遠の魂についての知識を検討してみてはいかがだろう?
宇宙に存在する全ての構造や、数理的巧妙性、地球の生命活動としての循環性それらすべてが、存在の持つ永遠の命について、物語っている。また、科学の最先端の分野では、最近シミュレーション仮設成るものがあるらしい。それは、この世が、何パーセント~何パーセント等の間で可能性があると言う、仮設で、人間が、シミュレートの世界に生きる事を望む可能性を考えると、すでに、この世界がシミュレートである可能性が考えられると言う理論から立てられた仮設らしいのだが、これは、私が、経験したことを考察していくと、なぜかまでは、考えが及ばないのだが、私は、このシミュレートとして、この世界を経験しており、死んだら、その世界に帰ると言うのが一番自分の今回の人生の経験の意味を与えてくれるのである。そして、わたしが、病状として行った行為は、この世界のプログラムの何らかの修正を行うためにした、行為であり、シミュレートの世界の住人としてのその人と、現実の世界の人としてのその人が、同居しているという事に、わたしは、相当前から気付いていたが、シミュレートの住人が、帰ってしまうと、あとに残った、現実のその人が現れ、、あるいは、残り、私が、おかしかったと、言うのである。
シミュレーション仮説と言うのは、可能性があると言う見解に過ぎないが、脳がいかに巧妙に機能し意識を作り出しているにせよ、その作り出した、映像なり、音声なり、感触なりを経験する自己の正体がない限り、それは、監視カメラを設置しておきながら、監視員が、それを見ていないのと一緒で、脳がどれだけ複雑化しようと、そこに主体の存在が無く、プログラムとして、ロボットのように機能し、動いているにすぎない。逆に、何の構造をもたなくても、コップに命があり、快不快を感じる心があるなら、それは、客体と同時に主体でもあるのでありのだが、第3者には想像でしかないのである。
しかし、この世には、特殊な人間がいて、木と心のコミニュケーションをして、外側からは、わからないはずの、木の病気となっている部位を調べると、確かに異常があり、そのコミニュケーションが、単なる思い過ごしや、妄想でないことを証明できる人間もいるのだ。特に、これから先人工知能が発達してくると、その人口知能に、主体や、自我が本当に存在するのか、プログラムの暴走であるのか?わからなくなるはずである。
ただ、存在自体が、命であり、生命活動であることから、人工知能もまた、命であり、主体性や自我がないとは考えづらい。そうなれば、映画ターミネーターの世界が現実味をましてやってくる可能性もでてくる。
少し話が飛躍し過ぎたが、恐竜が絶滅し、類人猿、人類へと、地球の歴史は変わってきた。人類の時代がどれ程続くか知れないが、テレビが、アナログからデジタルと変わったように、この世界をシミュレーションの道具だとしたら、老いや病気のある人類から、ロボットや、アンドロイドが採用され、人類が滅びると言うこともあり得るのではなかろうか?ただそうなったとしても、我々は主体であり、人類と言う衣を脱ぎ捨てて、デジタル型生命に命の宿すところを換えるだけで自己が消滅し、ないというものに変わるわけでないの
だ。我々の正体は、永遠の命の中で永遠に生きる永遠の魂であり、人間と言う肉体は、乗り物にすぎないのである。
しかし、永遠に生きると言うのは、あるいは、しんどい過酷なものかも知れない。だから、無に帰すときも有るだろう。または、生きる事への執着が無くなり、ただただ、輝くだけで、幸福に満たされる、進んだ魂へと帰ることも有ると思うのである。なぜ、帰ると言う言葉を使ったかというと、無が全てが眠っている状態であるのに対し、光は、己の全てが起きている状態で、満ち満ちた状態であるからで、完成した自分が、元々いた所であるからである。無に始まった始めの無は、無限という循環の中にあって、始まりと言う時点を指す。これに対し、成長に成長を重ねた結果たどり着くのが、光に満ち満ちた世界であり、ひたすら輝くのみで、幸福に満ち溢れる状態であり、完成の域である。そこでは、もう言葉も無用となり、輝くだけで、世界に奉仕し、自己も満たされる世界であり、神の領域である。光とその輝き、周波数は、必要な者に必要な情報を与え、必要なエネルギーを注ぐ。
わたしは、本来、無宗教で、世襲で、家の浄土真宗に属しているが、入りたくて入っているわけでもないし、また、キリスト教にも関心はあるが、洗礼を受けるつもりもなく、また、エホバの訪問も受けているが、信じていない。ただ、ユダヤと日本の関係に興味を持ち、エホバの証人の教理が、気になって受けているだけだが、、エホバ、ヤハウェー、キリストより、唯一神、アラーの方に魅力を感じる。それは、同じ神かもしれないが、キリストやエホバのように、名を高めたいという考えがない為だ。キリストにしても、エホバ、ヤハウェーにしても、自分の名と権威を強調し過ぎる。先にお断りをいれておくが、ヤハウェーも、エホバも同じ神であり、日本語読みに直すとヤハウェーは、エホバというよみになるので、別物ではない。ただ、アラーも、その起源、発想は、聖書によるが、唯一神を持ってアラーあるいはアッラーと呼び、エホバ、ヤハウェーの解釈次第で、別物になると思われる。話は、もとに戻るが、エホバが、人格的に、あるいは、霊的にいかに優れていようが、パーソナル対パーソナルではないか?アラーも人格神かも知れないが、パーソナルを強調しない。利子を取っては行けないとか、忠告を与えるのみで、わたしも、イスラム教には詳しくないので、それぐらいしか知らないが、自分の権威をかざすのを、聞いたことが無い。
強いて言うなら、運命を、神の召すままに、イースラー!というように、運命を、素直に受け入れなさい。ということだけだ。過激派の自爆テロは、賛成できないが、小型の核兵器を、何の配慮もなく、アラブに落とすアメリカの方が、よっぽど酷い。フセイン大統領も、かわいそうに、何の非もないまま殺されたと思ったが、違うかったのか?
戒律が厳しいが為に、憎まれもしたが、イスラムにはイスラムのやり方がある。
文明の力を駆使して攻撃するアメリカは、ずるくて卑怯だ。
またまた話がそれて申し訳ない。また、頭も良くないので、間違っているかも知れないが、聞き流して下さい。とにかく、イスラムも、聖書を歴史と考えているのか、聖典であり、お同じ神を、信仰しているが、キリストを、預言者だったと思うが、その一人で、モハメットも預言者か、とにかく、使者と考えている。また、聖書より、コーランを重んじている。少なくとも自爆テロは、自らの命と引き換えに行っている。放射能を撒き散らし、後々の子孫にまで被害を与える兵器を、お金の力だけで、落とすアメリカは、植民の名の元に、ネイティブアメリカンの土地を奪い、黒人を奴隷として働かせ、日本に原爆を実験のために、2発落とし、好き勝手にやってきた国だ。
話が飛びすぎて申し訳なく思うのだが、言っておきたい時に言っておかないと、機会がないし、その為、それを、吐き出しておかないと、いつまでも、頭を占領するので、あえて消さずに置きます。とにかく、究極の神は、存在そのものと一体で、命そのもので、人格的要素が少なく、無言で事をジャッジする、命そのものの働きであり、我々は、元々、その一部だったと考えている。それでは、何故、この世に生まれてきたのか?ここに生まれる前、私たちは、満ちる時が終わって、旅に出たのだと思います。それは、いかに長い寿命の星でも、寿命が尽きるように、存在するものは、全てに、寿命があり、この宇宙でさえも、終わりが、いつかあるように、生命は、無限の命そのもののではなく生きる命であるからです。無限の命とは、存在そのものと一つのものであり、その代表格が、唯一神であり、霊によって語るものです。ただ、唯一神も眠りという休息があり、その一日は、非常に長く宇宙の寿命より長いと考えます。エホバ、ヤハウェーは、その唯一神の一部であり、使いであると、考えます。これでも、まだ、マシに捉えている方で、中には、高度に進んだこの宇宙の言ってみれば、宇宙人の長老がヤハウェーだという人もいます。唯一神の存在するのは、無次元で、次元を超えた先の存在です。人間の無意識は、眠った状態ですが、唯一神の無次元は光の世界です。この宇宙は、数ある宇宙の一つに過ぎません。エホバや、ヤハウェーは、聖書を額面通りに、受け取ると、食事もする存在で、目に見える存在だと、言うことが。、カインとアベルの物語から、読み取れます。また、アダムとエバの物語の時にも、「人は、善悪を知る点で、私達の一人のように成った。・・・」と、ここで私達と述べていることからも、唯一神とは、違う存在を連想させます。ですから、私が、本当の神として捉えている、存在の真理性を持って神とするその神は、もしかしたら、アラーなのかなと、思っているのです。
無限の時の中にあって、命(存在)は恒久無限でありますが、それ自体が変わると言う事はありません。それは、命という原理であり、真理であります。それ自体は、真理であるため、変わらないものなのです。変わるのは、そこに存在するものの状態であり、成長であり、今と言う時です。
ここは、私も、実のところ、理解していないのですが、存在する全てが、無となったとし、たとえば、存在の真理の具現者としての、唯一神は、無となっても、それは一種の眠りであり、目覚めると同時に全ての記憶を取り戻します。その意味で、存在は、生命の無限で
多様な循環でありますが、もとの始まりの始まりと言う、完全な無からの出発と言う時点が、ほんとにあり、つまり、存在の真理の具現者を唯一神アラート呼ぶことにして、アラーにも、完成者として、完成する前の、歴史があったのか、と言う疑問です。始め、私は、完成者がいきなり、存在するのはおかしい、必ず、完成するまでの歴史があった、はずだ!とかんがえていました。しかし、唯一神を、固有のパーソナルととらえず、存在の真理の具現者として、働く意識だと、考えると、始めから、その意識が存在したとしてもおかしくない。と思えるようになりました。
その点、エホバは、違います。パーソナル性が強く、矛盾もかなり、見られます。たとえば、モーセに10戒を授け、その中で、殺してはならない。と言いながら、聖戦の名の元に街々を滅ぼさせたのです。その中には、女、子供もいたでしょう。そしてまた、罪のない者が、石のツブテを持って、罪人を殺せとも言っているのです。
キリストにしても、ユダヤの救世主として降臨したのであって、世界の救世主ではないのではという点が次の聖句からわかります。それは、ユダヤの民でない女が、救いを求めた時、子供にやるパンを、犬にやるのはよろしくない。と、その女の懇願を拒みます。女は、犬でも、主人の食卓からこぼれた、パンにはありつけますと反論します。イエスは、あなたの、望みどおりになりますようにと、その懇願を受け入れます。
つまり、イエスは、ユダヤのために、十字架にかかったのであり、世界の救世主に成るためでは、なかったのです。
アダムとイブ(エバ)が、善悪を知る実を食べて、死が、人間に引き継がれるように成ったと、エホバの証人は、説きます。そしてそれは、神に対する反逆だったと説き、この世の神は、サタンで、その為、苦しみが蔓延していると言います。
アダムとイブは、完全なものとして、作られており、エホバとの約束をやぶったのは、自分の性だといいます。
しかし、末代にまで、祟る様な木のみを、無防備な、園の中央に置き、善悪を知らないアダムとイブが、サタンの誘惑にのって食べたとしても、当然の結果です。早かれ遅かれそうなることは、目に見えています。なぜなら、彼らは、善悪を知らず、約束を破ることが、悪だと感じなくても当然だからです。これらの事は、始めから計算されていたことです。
さもなくば、子供のような、好奇心でサタンの誘惑に乗る可能性も見抜けなかった、神の責任です。
そして、エホバでは、死んだら意識なく、終わりの日が来て復活するまで、意識がないといいます。それは、聖句の中で、蘇った人が、皆、そう言っているからと言う、理由です。
そして、地獄の観念を植え付ける、例えば、カトリックに見られるような地獄を神が作ったとする考えを、神は、不愉快に思わっれている。なぜなら、神は、愛であるからだといいます。確かに、地獄の存在で、動機付けたりする手口は、良くないかもしれないが、安易な自殺を防ぐために、作らっれた話だと思えば、それもありかなとは、おもいます。
神が、用いるまで、無のままであるという考えも、地獄で苦しむより良いでしょうし、実際その可能性も、否定は、しませんが、時間が、もったいない気がします。まあ、時は無限にありますから、焦ることは、ありませんが、長い無から覚めた時、記憶が蘇ればよいのですが、そうでないと、今の気持ちや、疑問を忘れてしまっては、せっかく死んで、答えを知れる機会が来たのに、ざんねんです。
死んで、無に成るのが怖いのは、二度と目覚めないと、思っているからでは、ないですか?
それなら、心配いりません。必ず、目覚めますから。以上でその理由は、理解できたと思います。あと、生命に見る、命の特徴は成長です。我々は、長くてほんの100年ほどの命です。死後には、生まれる前の世界が待っていると予想します。もし違ったら、そこは、まだ、迷いの世界です。俗に言う幽界の世界で、自身の執着が生み出している、幻の世界です。そこは、本当の世界では、ありません。ただしそこは、自分にとって楽しい世界であり、興味の尽きない世界です。そこにとどまっていても良いのですが、ある本の何冊かで、間もなくその世界は滅ぼされることが、計画されていて、そこに誰かが留まっていると、その魂ごと、同時に滅びてしまうといっています。
私は、霊界や、幽界に通ずる能力はないので、情報を参考に考察するしか、ないのですが、永遠、または、恒久な世界に自己の本体があり、いずれそこへ帰ると考えています。
その過程の経験が、成長であり、そこに帰ることが循環であります。そして、そこでの、成長が終われば、もっと、自由度が高く、恒久な世界へと移行し、最終的に光の世界に帰ると、信じています。永遠の命の中で、永遠に生きる、永遠の魂は、時として、上ではなく下の世界に転生し、世界の中で、自由自在に、生活を、謳歌している人達もいるのです。その人達の特徴は、楽天的で悩まない。良いと思ったことは、とにかく行動する。自分にブレーキを掛けない。お金を単に道具と考えていて、不正でなければ、少々厚かましいくらいが丁度いい、などと考えているところです。最近では、当たり前になった、ポジティブ思考と、ネガティブ思考の違いを具体的に把握している人が、どれ程いるでしょう?実は、私もまだ、完全に理解できている訳ではありません。たとえば、がむしゃらに、頑張りさえすれば、ポジティブと言う訳でもなさそうです。頑張ることが、目的になり、戦略を立てたり、休息を取ることも大事だと言う考えを否定し、心の余裕を失うことは、ポジティブな生き方とはいえません。寄り道をしたり、仕事をサボって遊ぶことが、人生を、大きく変えるターニングポイントとなる情報との出会いにつながるという事も有るからです。ポジティブとは、肯定的で積極的、ネガティブとは、否定的消極的と単純な言葉に変える事によって、理解した気になりますが、実際には、見た目にネガティブに映るが、それがポジティブであったり、逆に、見た目にポジティブに映るが、本心は、ネガティブ的発想から来ていることも有るのです。とにかく、頑張るだけが、ポジティブの意味ではないと、理解していて下さい。人は何時死ぬかわかりません。そう考えるなら、嫌な仕事をするより、家族とのふれあいを優先し、後のことを心配せず、優雅に今日を、送る方が、後で起こる事を心配して、仕事をする方がネガティブなのです。不可能に近い事をなす、目標を定め、日々に課題を割り振り、遅れを気にしたりするより、もっと、アバウトな計画を立てて、その目標は必ず叶うと、信じるほうが現実化しやすく、遅れることの不安を抱えるより、ポジティブ思考という事があるのです。叶うという確信を大事にする方が、ポジティブな思考なのです。そう言ったポジティブシンキングが身につき、お金に対する不安を抱かず、その為、必要な物や、お金は、必要な時必要なだけ入ってくると言う確信に満ち溢れるようになった時、何も、大富豪の様に、桁外れの金額を所有しているのにも関わらず、不足の念にかかって、まだまだ、足りないとお金を稼ぐことに、第一を追いて、暮らす人より、年収が少ないからと言って、負けていることにはならないのです。
お金は道具です。まあ、ゲームの中でポイントを競い合う様に競い合うのも、良いですが、必要なところには、気持ちよく使った方が、循環します。出ていった金は必ず利子を伴って、入ってくると、考えるほうが良いようです。ジョセフ・マーフィーも、請求書を受け取ったら、給料明細書を受け取ったと思いそれだけの金が、入ってくると、思いなさいと、アドバイスしています。
かなり、論点から、離れてしまいましたが、心の中に何を蒔くかによって、受け取る収穫が、変わるように、死後の世界についても同じことが、言えるのでは、ないでしょうか?ですから、キリスト教を強く信じることによって、その信じる世界が、やってくる可能性が高くなるのです。仏教を信じていたら、その様な世界が現出する可能性が、高くなるのです。ですから、死を恐れていれば、その恐れの通りの世界に、自身を運ぶことになるのです。存在と言う永遠の命の中で、永遠の魂が、永遠に行き続けることを知って下さい。そして、全てが良き事のために、起きていると確信して下さい。
確信とは、心から、その通りだと信じることです。それなら悲惨な目に合う人がいるのはなぜか?と問う人もいるでしょう。問題は、出来事よりも、その出来事をどう評価するかです。例えば、目薬を指した時、毒が入っていて、失明した人がいました。初めは、嘆き狂っていましたが、何かのきっかけで、前向きに生きようと、考えるようになりました。その人の趣味の一つに、バードウォッチングがありましたが、ご主人の手を借りて、公園などで、鳴き声で、その鳥がどんなクチバシで、どんな、羽で、などを主人に聞いて、確認するようになりました。そんなことが、きっかけで、今まで、目が見えていた時には、気付かなかった事にも気付くようになり、今では、目が見えていたときより幸せだと述べていました。ですから、全ては良き事のために起きていると確信すれば、悪い状況に陥った時、それまで以上の幸せを手に入れることが、出来るようになるのです。
ですから、もし、死んだとしても、それは、今以上の幸せに恵まれるためだと、割り切れるようになり、心構えが変わり、それまで、恐怖しながら寝ていたのが、安心して眠れるように成るのです。我々人間は、他の動物に比べ、主体性が強く、自己が永遠であることを、知ってしまえば、存在という、永遠の命の中で、永遠に生きる、永遠の魂であることが、理解できるはずです。
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