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ザイム夢我無罪のブログ

テーマも無いままに、見苦しいブログに成ってしまっていることをお詫び申し上げます。

無とは

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無とは

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死ぬと?無の本質が教えてくれる無限の世界


(1)無の本質を知らないとタナトフォビア(死恐怖症)になる

最近、死恐怖症と言う精神疾患が話題となってきた!

死恐怖症には、タナトフォビアとネクロフォビアの2つの言い方があるが、

タナトフォビアが自分の死に対する恐怖症であるのに対し、ネクロフォビアは死自体への恐怖で、

他者の死や死のイメージへの恐怖も含まれ、ネクロフォビアが昔からあるのに対し、タナトフォビアは、まだ新しい言葉である。

自分の死が怖いと思うのは、一般的にも、普通の感情であるのに、なぜ今それが、フォーカス(焦

点と)されて来たかと言うと、脳科学が発達し、意識は脳の産物であり、「死」イコール「無」。

と言う、唯物論的発想が知的な人の一般的見解になり、「無」になる事への恐怖から、死恐怖症に

なり、パニック症や、不眠症になると言う病的症状にまで発展するようになって来たからだろう。

それほど医学的なあるいは科学的な知識がなくても、死んだら無になると考えるのは、当然の理性

で、なぜなら、一部を除く殆どの人は、生まれる前の記憶を持たず、無で始まったのだから無で

終わると言うのは、論理的思考で、何の科学的根拠もなく、宗教的概念を信じろと言われても、

受け入れられないというのが、本音でしょう。

また、唯物主義者には、魂は不滅だ!と言っても、魂と言う概念自体が曖昧で霊と言う言葉同様

に、科学的に認められないものは信じないと言ったところでしょう。

そして、「無」が、なぜ怖いのかと言うと、それは、失う事への恐怖です。

意識を失う、生きて来た事が、無意味になる。友や家族を失う。忘れ去られる。永遠の無が怖

い。自分の価値を失う。そして、唯物主義を捨て、宗教に属したり、神や、輪廻転生、仏を信じ

ることは、、識者としてのプライドが許さなかったり信用を失うことが怖くて、出来ない。と言ったところでしょう。

私も、高校を卒業するまでは、無に帰す事の方が自然だし、当たり前で、高校の倫理社会の授業

で、キリスト教の死のない世界観を聞かされた時、思わず、先生に、死がなかったら、しんどい

でしょう?と反論した事が、あります。

また、中学生の頃は、毎日が幸せの連続で、屋上なんかで、寝転んで、青い広い空を見上げて、

この青空に吸い込まれる様に、今死ねたら、幸せと一体となり、永遠に幸せなれるのになあ!と

思ってました。守るべき物も、者もなかったからです。

(2)「無」の本質を知ると死の恐怖が半減する。

無には、狭義の無、有無の無と、広義の無、絶対無があるが、この絶対無は、何もないのではな


く、存在と同義であると書かれてあり、どこかの国の言葉に、「ない」と言うのを、「無があ

る」と表現する国があるくらいで、私は、それを知る以前から、無が、存在の一様態であると、

言う結論を高校卒業後に考えついたのであるが、私だけが、導き出した、答えだろうと思ってい

たのだが、そうではなかったのかと、少々残念に、思えた。

 それでは、なぜ、「無」が、存在の一様体に過ぎないのか?と言う事を説明しよう。

まず、私が、この我々の住む世界、あるいは、宇宙に、初めて疑問を抱いたのは、近所のお兄さ

んに、「宇宙が、無限永遠だ」と聞かされたときである。私は、始まりも終わりもない、無限永

遠と言う世界が、不完全に思えて、なぜ、これ(存在)は、有ってしまったのだろう?何もなけ

れば、完全だったろうに!とそう思った。何もなければ、矛盾も、疑問も、なかったはずなの

に!とそう考えた。無限永遠が、理解出来なかったせいもあるが、今、付け足すとすれば、何も

なければ、自分も、他人も、無く、その為、苦しみや不幸もなく、幸せを求める必要も、喜びを

求める必要もなく、「ない」と言う真に完全だったからである。

後に知ったアインシュタインの相対性理論により、ビッグバンと言う宇宙の始まりが有った事を

知るが、その時には、数が無限であるように、存在もまた無限で、始まる前は、なんだったの

か?と言う疑問が生じる。この、宇宙の始まる前と、終わって無に帰した状態が、絶対無であ

り、(他に世界や神が存在しないとして)あるいは、自分が無に帰して、何もない状態になる事

を広義の無として、私は、「無は、存在の一様態にすぎない。」と言う結論に至ったのですが、

その過程を述べると、

1、全ての始まる前の本質を考えた場合、本質それ自体が、あるか、ないか、しかありません。

もし本質それ自体が、なければ、「ない」と言う真であり、あるのなら、それこそが、存在の本

質であり、存在こそが、真理なのです。Nothing is nothing. であり、真にないなら、「ない」

からは、何も、生まれないわけです。ところが、現実には、存在は、あってしまったのです。そ

して、存在を知らされた我々には、「ない」と言う真があるとは、言えなくなってしまったので

す。なぜなら、「ない」と言う真が、あるなら、あるのですから、「ない」と言う真に反する事に、なります。

そういうわけで、全ては存在なのです。それでは、何もない「無」は、一体何なのか?実は、無

は、一見何もないように思いますが、無になっているもの、つまり、何もない状態に、なってい

る者、あるいは、物と、時が存在します。この、「時」は、物理的時間ではなく、変化です。存

在それ自体は、真理ですから、無限に存在ですが、存在するものは、有限です。存在は、有無そ

ろって存在なのです。「無」と「ない」の違いを簡単に説明すると、「無」は、白紙の紙の様な

もので、ここには、描かれる以前から、あらゆる、すべての形が、存在しています。ここに、形

を描いた時に他との識別が生まれ、存在するものと、成ります。一方、「ない」と言うのは、こ

の白紙の紙自体からないことです。ないところには、描きようがなく、形を存在させることは出

来ません。ビッグバンの原因は、ゆらぎであると、言われています。つまり、ゆらぐ何かが、存在したと言う事です。

ここで、関係のない話を、入れる事を、許可願いたいのですが、無に、点を書いたとしましょ

う。点は、0次元ですが、存在であり、紙面上には、確かに存在しますが、量を持たないため、

周りとの区別がないので、識別されません。確かに、実在の世界では、特異点として、認知する

事は出来ますが、無の世界では、識別されないものは、存在する存在となるには、達しません。

また、線も、実在の世界では、境目の様に、確認出来るものです。しかし、無の世界では、量を

持たない点の集積であり、量を持たない為、識別が生じず、存在する存在にまで到達できませ
ん。

ここまでが、0次元にも満たない、無次元です。そして、線を閉じて、円、あるいは、形を書い

た時に、初めて量を持ち、識別が生じ存在する存在と成るのです。しかし、形を描く線が、量を

持たない点の集積であれば、識別される線は、描けず、よって、まず、点が閉じた円により量を

持った時、0次元に到達して初めて、識別される様になり存在する存在となる。もちろん、この

点の量は、0であるのだが、閉じた円の中身が、空あるいは、「無」であり、決して「ない」訳

ではない。もし点が0次元である故に、ない、とするなら、ないものは、いくら集めても「な

い」はずであり、線分を描けるはずがないのです。

ここで、気付いて欲しいのは、識別されることにより 、存在と成る、その識別と言う箇所です。

存在が存在すると言うのは、主体と客体、つまり、見る側、認識する側と見られる側、認識され

る側が存在して、存在は、明らかと成り存在と成ると言う点です。確かに、物質や物も、生命現

象の一環であり、別の主体から、観測されなくても、存在するでしょう。

しかし、唯物主義者の言う物質とは、一体、何ですか?唯物論者にお尋ねしますが、あなたに見

えている、物質とか、物とは、一体、何なのですか?例えば、人間の見ている水と、あめんぼう

が見ている水とでは、全く違った存在です。と言う事は、客体、見られる側は、主体の意識や考

えに、依存しており、自性があるとすれば、H2Oと言う、一種のプログラムでしかありません。人

間や、動物の、構造となれば、巧みなまでの構造と機能が合理的に働いていて、偶然に生ずるプ

ログラムではないと知れば知るほど、神秘的であり、この地球を含めた自然の営みに、生命の神

秘を感じない方が、実は知性が中途半端な証拠です。

私は、何も、キリスト教などに、代表される、パーソナルな神を信じろとか、思っていません。

ただ、自然界の生命システムや構造を生み出した、生命の持つ原理を神と呼んでも良いし、ま

た、生命が存在すると言うより、生命現象そのものが、存在であり、物や、物質、あるいは、宇

宙全てが、生命であって、物質そのものに、自性があるが故に、物質のみでも、存在出来るし存

在しうる・・・

と言う考えもないままで、意識が脳の産物であると言う考えは、成り立たないのでは、ありませ

んか?意識が脳の産物であるなら、物質自体に、生命の営みが、あるが故に、これほど、高度

な、意識や、精神と言う、機能が発露したと考える方が、あるいは、脳の複雑な構造や機能が、

生じたと考える方が理にかない、そうでなくては、あらゆる構造がプログラミングによって、プ

ログラムされた、しいては、パーソナルとしての神を、認めざるおえないと言う結論になってし

まうのでは、ないでしょうか?

この、、宇宙の仕組み、地球の生命活動の営み、生物の複雑で巧妙で、精緻な構造を、偶然の産

物と見なす、見なせる、方が、、理知的でない証明ではないでしょうか?

パーソナルで、プログラマーの様な、創造主としての神を、受け入れるか、宇宙全体を生命活動

の一環と考えるかのどちらかしか、これらの事を、理解するすべは、ありません。

わたしは、哲学(存在論)を詳しく学んだことは、ありませんが、「無」が、存在の一様態に過

ぎない事を、先に述べました。もう一度ここで、まとめると、

1、「ない」と言う真は存在によって、否定され、「ない」と言う真がある。と言う事は、ある
 
 のであったら、あるのだから、「ない」と言う真に、反し、よって、存在を知らされた、我々
 
 には、もはや、もう「ない」と言う真があるとは言えず、全てが存在である事。

2、故に「無」も存在であり、何があるかと言えば、「無」になっているものの正体、本質と、

 時が存在し、ただし、物理的時間ではなく、変化である事。

3、故に、「無」は、存在の一様態であり、存在とは、有無合わせて存在であり、存在するもの

 は、有限であり、必ず終焉があること。

4、無は、存在の本質そのものであり、白紙の紙に、あらゆる形が存在する様に、「無」には、

 存在の全てが眠っている事。

ここまでは、話したはずですが、あなたは、存在を今、認識していますね?そして、自己の存在

を自覚しています。この自己の自覚が、あるのか、ないのか、と言う事は、本来、自分にしかわ

からない事、なのです。たとえば、優れたアンドロイドに、我々と同じように、自分が見ている

事を、自覚しているかどうかは、つまり、本当に、アンドロイドそのものに、見えているのか、

機械的にプログラムとして、ただ、反応しているだけなのかの真相は、そのアンドロイドにしか

わからないことなのです。極端な話、植物や、機械、あるいは、物、たとえば、コップに、自

分、たとえば、心とか、不快や喜びというのが、あるのかどうかも、第3者には、わからない事

なのです。たとえば、植物に、良い音楽を聴かせると喜ぶ様な反応を見せると言います。光子

が、観測者がいない時には、勝手なふるまいをしているとも、何かの本に書かれてあったと思い

ますが、科学的に認められている事です。逆に、同じ人間にしたって、その人が、プログラム的

に行動しているだけなのか、私と同じように、ちゃんと、見ている正体があるのかも、実は、私

には、つまり、第3者には、想像でしかないのです。たとえば、ゲームです。主人公を操作して

いるのは、プレイヤーで、他は、プログラムが、反応しているだけです。と言う事は、この世全

体がプログラムで、自分の本体が、この世界の外側にあり、他は、ただ、プログラムで動いてい

るだけなのかもしれない。と考えられない事も、ありません。どちらの話も、極論ですが、あな

たに、自覚があるのかどうかは、あなたにしかわかりません。何が、言いたいのかと言うと、あ

なたが、自覚がある存在なら、脳が見ているのではなく、あなたが、見ているのです。脳と言う

構造物は、この世で、人間が、機能する為の仕組みであるだけであり、自覚を伴うなら、あなた

と言う正体が、実存するのです。私は、哲学を本格的に学んだ事がないので、実存と言う言葉が

正しいかどうかは、わかりませんが、無に帰している事が、あるにせよ、あなたの正体が存在す

るが故に、あなたは、脳が、創り出した、感覚を、あなたが、経験しているのです。経験してい

るのは、あなたであって、脳ではありません。脳が、意識を生み出したにせよ、それは、この世

と言う世界を経験する為の、この世の仕組みであって、監視カメラをみている誰かが居て初めて

意識に捉えられ、監視カメラを見ている者がいなければ、監視カメラは、ただ、機能しているだ

けの、機械の働きに過ぎません。

脳の中に全ての情報を捉える部位があり、それを通して、あなたが経験しているのです。その正

体をある人は、魂と呼び、魂は不滅だと言っているのです。

死後、「無」に帰す可能性は、否定出来ません。ただ、存在は、絶対的真理です。つまり、無限

永遠です。ですから、必ず意識は、再び生じます。そして、「無」は、識別を失った状態である

為、苦しみも、痛みもありません。タナトフォビアの人には、ぜひとも、考えて頂きたいのです

が、文中でも書きましたが、存在は、生命現象そのものです。昆虫が、卵から幼虫に、幼虫から

さなぎに、さなぎから成虫になる様に、人間も、より次元の高い存在へと脱皮する可能性の方が

高い事を、説明したいと思います。それを、読めば、死への恐怖が一段と低くなると思います。

[無」から死後の世界を探る。

これまでの記事をまとめると、

1、「ない」と言う真は存在によって、否定され、「ない」と言う真がある。と言う事は、ある

のであったら、あるのだから、「ない」と言う真に、反し、よって、存在を知らされた、我々に

は、もはや、もう「ない」と言う真があるとは言えず、全てが存在である事。

2、故に「無」も存在であり、何があるかと言えば、「無」になっているものの正体、本質と、

時が存在し、ただし、物理的時間ではなく、変化である事。

3、故に、「無」は、存在の一様態であり、存在とは、有無合わせて存在であり、存在するものは、有限であり、必ず終焉があること。

4、無は、存在の本質そのものであり、白紙の紙に、あらゆる形が存在する様に、「無」には、

存在の全てが眠っている事。

5、経験を自覚する我々は、脳の産物ではなく、正体が自覚しているのであり、アンドロイドに

それがあるか、機械的に動作しているのかは、そのアンドロイドにしかわからない。

つまり、経験を自覚している事を知っているのは、自分自身だけであること。

6、存在は、生命現象そのものであり、唯物論的発想では、動物、人間などの様に、複雑で、巧

妙で、精緻な構造や、地球や宇宙の生命的営みを説明するのに、プログラマー的、パーソナルな

創造主としての神を認めざるおえなくなってしまう。その為、それが、嫌なら、存在、あるい

は、宇宙の全てが生命現象で、物質自体に、生命的作用が働いており、宇宙全体が生命活動である事を認める事

などについて述べた。

(2)死後の可能性を考える

存在が生命現象である為に、動植物や、自然現象の巧妙な機能について、説明できると言う事

が、理解頂けたと、思う訳であるが、死後、すぐに、無になるかと言う点について、考えて行きたい。

まず、あなたの正体としての、本質的存在性と存在の、特徴としての、「ある」と言う点に着目

すると、もし、死んで、無になり、それから、時をへだてて、真っ新な無から、始まる事の繰り

返しだとすれば、記憶に残る、何もなく、存在は無意味であり、「ある」と言う特徴に何の意味もない事に成る。

確かに、そう言った、繰り返しを続ける存在も、あるには、あるであろうが、私の、独自の考え

方としては、むしろ、現在のこの生まれる前の記憶を持たない、この世界の方が、特殊で、無限


の世界に自己の本体と言うべき存在が存在し、いずれは、そこに帰るのではないかと考えてい

る。この世界での我々人間の役目は、この世界を、経験する事であり、この世界が実在する事を

確認する事だと考えている。もちろん、才能を発揮し、活躍し、社会貢献する事も大事ではある

が、人間の脳が発達し、この世を研究したり、新たな物を、世に送り出す能力があるのには、こ

の宇宙と言う生命が欲している欲求を満たす役割がそこにあるからでは、なかろうか!それと、

自己の成長のプロセスの一環として、この世に生まれて来るのではなかろうか?

大事なのは、自己の成長であると、仮定して、死後、どんな世界が待ち受けてるかであるが、今

最も、注目を集めているのは、アセンションと言う考え方である。

アセンションと言うのは、昆虫が、卵から、幼虫へ、幼虫から、さなぎへ、さなぎから成虫へと

変わる様に、人間も3次元から、4次元、5次元、6次元と次元上昇していく、と言う考え方で

ある。存在が、あるいは、宇宙が、生命現象であり、それゆえ、動植物の構造や、自然の営み、

たとえば、地球の自然の循環機能などの様な、複雑、巧妙で精緻な機能が、生じたと、話した。

もちろん、神を信じている人は、神が想像したと考えて頂いても結構であるが、その生命の目的

の内、特に、人間は、自己の成長と言う部分が、特に、きわだっている。そう考えると、4次

元、5次元、6次元と上昇して行くと言う考え方は、まとを得た回答で、それでは、この、次元

上昇とは、どう言うものかと言うと、簡単に言えば、周波数を上げてゆく、と言う事である。

余計に、わからなくなりましたか?(笑)

つまり、より軽くて、自由度の高い存在へと変わって行くと言うことです。

エゴ(自我、我)を捨て、怒りや、ねたみ、しっと、等のネガティブな感情や思考から離れ、間

違ったプライドを持たず、私イコールあなた、あなたイコール私の関係を広げて行き、つまり

は、良き仲間の輪を広げて行くことで、自由度と、幸福度を上げて行く事により、自分の中のバ

イブレーション、つまりそれが、周波数ですが、それを上げて行き、4次元領域、5次元領域へと、次元上昇して行くことです。

実は、元々、我々は、ひとつだったのです。ですが、それが何かを知る為に、分化していったの

です。その記憶を取り戻す為の作業であり、探険です。

その道に詳しい人のアドバイスによると、本当にしたい事をしなさい。必要な物は与えられま

す。と言っています。

また、過去や、未来は、幻であり、今を生きなさいとアドバイスします。

アップル社の創業者である、スティーブ・ジョブズも同じような事を言っています。

死から話が反れましたので、元に戻すと、死んで無に帰したとしても、必ず又生まれる。その時

には、特殊なケースでない限り、記憶を失っているので、過去は記憶していない為困る事はな

い。もし、今、心残りがあるなら、それを、今やりなさい、今を生きている限り、必要な物は与

えられます。と言うアドバイスに従う限り、困った事が、起きたとしても、乗り越えられる。こ

れについても、スティーブ・ジョブズの演説を聞くと良いアドバイスに成ると思うので、載せる

スペースが、あれば、後で、ユーチューブか、そのリンクを載せておきますので、ぜひ、見て下さい。

地獄の存在については、、この世でも、地獄の苦しみがあるくらいだから、地獄を一時的に味わ

う可能性がないとも、断言できない。特に、安易な自殺は、一時的地獄を味わう可能性が高い。

なぜそんな事を言うかと言うと、ある友達に、存在はエネルギーであり、喜びや、幸福と言う、

エネルギーを、自ら下げるような、地獄と言う世界は、存在しないと言った為に、安易に、自殺してしまったからだ。

苦痛に耐えきれず自殺する者もいるだろうが、救われることを祈る他ない。

ただ、死んでしまったのなら、それは、そもそも、そう言う運命だったと言わざるおえない。

そして、付け足すと、地獄も天国も自ら創り出す、あるいは、招き寄せるもので、天国的な生き

方を絶えず選択していれば、天国的世界を招き寄せ、地獄的な生き方を選択していれば地獄的世

界を招き寄せる事は、生きている今現在の人生においても、いえることだと言う事です。

そして、天国的生き方を、していれば、アセンションしていくか、あるいは、

私は、死んだあとどうなるかと言う本を何冊か読んだことがあるが、大まかに言うと、幽界、霊

界、神界と昇華してゆくとか、仏教では、3千世界があり、階層に地獄界、餓鬼界、畜生界、修

羅界、人界、天界、声門会、縁覚界、菩薩界、仏界の十界があるとか、キリスト教では、カトリ

ックでは、死ぬと、神の審判がくだされ、天国、煉獄、地獄の3つのコースに分かれます。煉獄

は、天国に入る為に、苦痛を受ける事を犠牲としてささげて、天国に行くところです。プロテス

タントでは、煉獄はないそうです。エホバの証人の説くのは、神は、愛であり、地獄などありえ

ず、最後の審判の時まで、無意識で、その後、天の天国と地上の楽園に復活する者、復活しない者に分かれます。

ただ、宗教の世界観は、人間の考えである場合が多く、また、仏教で上げた階層は、死後の世界

と言うより、その人の状態を示しているのかもしれません。

ですが、信じている人には、信じている通りに成りやすいと考えられています。

どちらにせよ、天国的生き方をしていれば、良い世界に行けるでしょう。

私の友人が、ある時、こんなことを、もらした事があります。

自分は、生まれる前、この体に入るのをためらう者たちばかりで、それなら、俺が入ってやると言って、入ったと・・・・。

世界の情報の中でも、生まれる直前の記憶を持っていたり、生まれ

る前の記憶を持っている者が、一部ではありますが、まれにそう言う人がいてるようです。

私の場合は、生まれる前の記憶は持っていませんが、たとえば、そこに、居合わせる誰かだった

時の記憶が蘇る事があります。もちろん、その記憶は、その人の全ての記憶ではなく、その場所

に居合わせた時だけの記憶ですが、それが、人間に限らず、アリだった事もありました。

そこで、気になるのが、最近知った、シミュレーション仮説です。何の分野か忘れましたが、こ

の世がシミュレーションである可能性が、何パーセントから何パーセントの確率で存在していると言う、仮説です。

私が常々感じていたのは、どうして、この世はこんなに、遅れているのか?と言う疑問です。無

限の時の中では、すでに、全てが、達成していて、良いはずです。

子供の頃、なぜ、人間は、その辺に転がっている様な、野菜を食べたり、魚の死骸に手を合わ

せ、頂きますと言って食べるのか?人間は、宇宙食の様な、あんなものを、食べるはずなのにと、思っていました。

リニアモーターカーや、宇宙船にしたって、そんなに、画期的な文明とは、感じません。

むしろ、テレビの方が不思議でした。

テレビの原理はわかりましたが、パソコンのプログラムや、テレビの方が、不思議だし、プログ

ラムがどうして、動くのか、原理と仕組みを知りたいと感じてました。

ですが、最先端の時間が、あるいは、時代が、どうして、こんなに、遅れているのか?

理解しがたいです。

そこで、シミュレーション仮説が、妥当に感じるのです。本当の世界が実在し、そこからゲーム

か、成長の為に、プログラムであるこの世界に、生まれて来たと言う考えです。最近、ちょくち

ょく、ソウルメイトとか、スピリチュアル用語を見かける様に、なりましたが、そういった、霊

的世界においてもそうですが、より自由度の高い世界にとって、苦難や、努力を必要とする、こ

の世界は、貴重な体験をするのに、都合の良い世界で、また、霊界においては、何でも可能な世

界である場合が考えられ、そう言った世界から見ると、難しい世界に挑戦する事は、楽しい事なのです。

死んで無に帰すと言う考えは、初歩的発想であり、昔の発想で、成長とか、無限の存在の中での

自分と言う概念に欠けていて、存在に対する理解から、遠い発想です。

もちろん、全ては、仮定であり、どれが真実かはわかりませんし、信じている事が、具現しやす

いと言う性格上、あなたの世界では、信じている世界を創り出す事もありますし、生まれてき

て、この世を知ったわけですから、死んで、誰もが味わう世界がないとも言えませんが、たとえ

ば、1回の人生で全てが決まる宗教的死後の世界を、私は、受け入れがたいですし、存在の「あ

る」と言う特徴を無視した、有無を繰り返す、死んだら無に帰すそして全て忘れる。と言う死生

観を信じる事は、出来ません。

生まれる記憶を持たない、この世が特殊であり、仮の世界であると、私は、確信しています。で

すが、誰かが死んでも、この世がある様に、私が死んでも、この世はあると考えるのは、当然の

理性で、仮にシミュレーションであったにせよ、私が死んで後に残る人の事を気にかける事は、

仕方のない事だし、まだ、この世がシミュレーションであると決まったわけでもありません。

アップル社の創業者、スティーブ・ジョブズは、ある大学の卒業式に招かれたスピーチの中で、

愛する仕事、愛するものを持て!そして、直観に従って生きよ!妥協することなく、自分が、確

信をもって打ち込める生き方をせよ!締めくくりに、ハングリーであれ!、バカであれ!と述べております。

そのメッセージの中には、自分の時間を他人に切り売りするな!と言うメッセージ

も含まれていたように思われます。最後にその動画を載せておきますので、タナトフォビアの人

も見て、自分が他人の考えに毒されていないか、ちっぽけな、プライドや、世間の目を気にしな

がら生きていないか、改めて、見つめ直してはいかがなものかと思います。

大学の卒業式に招かれたステーブ・ジョブズの演説(ユーチューブ)


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